元日の震災から10日が過ぎましたが、何かしなければと震災翌日に買った灯油タンク2つですが…
この時はあっという間に近所のホームセンターからブルーシートと共に売り切れてました。
そうそう、後日ニュースで知ったんですが
↑ココはオラの母校、北陵高校(当時は松陵工業)の校庭の一部と校舎の基礎部分の土が崩落していました。
まだ授業再開の目処は立たぬまま、相当な工事をしなければ再開は無理でしょう。。。
実はその直ぐ裏の斜面を降った先にある丘陵地に墓園があり、そこに我が家の墓があります。
北陵高校のニュースを見てからは墓が心配で4日になって見て来ましたが墓地全体的に倒壊してる墓石は無かったように見えました。
我が家の墓を見てホッと一息。。。
さて、徐々に物資を揃えます。
上で買っておいた灯油2缶と
飲み水や生活用水様の10ℓポリタンクを6缶
ガソリンの10ℓ携行缶を4缶
あと、以前に我が家を修理した時に使った大型のブルーシート
その他、簡単に用意できるインスタントの味噌汁、スープ、米、少し日持ちするパン、ふりかけ
ミネラルウォーター2ℓのボトルを方々回って少しずつ買い溜め7本
ウェットティッシュ、キッチンペーパー
何を持っていけば良いのやら、想像だけでそろえます。
携帯トイレも沢山持ちました。
能登の愛妻様の実家の両親とは電話が通じて話は出来ていましたが、必要な物を聞いても『大丈夫や全部こっちにあるよ』と遠慮して答えません。
震災関連の記事の中に、被災者に大丈夫?と聞いても大丈夫!としか答えず、誰にも頼る事が出来ずに限界を迎えてしまい疲弊し体調を崩す人が沢山いるから気を付けて!と…
能登の両親はもう2人とも81歳、元気では居るものの今回の超大型地震で実家に受けた被害状況も、現在の体調も住環境も本当に大丈夫なのか自体が分からないんです。
6〜8日の三連休も終わり、世の中が動き始めた頃に震災後に注文してたポリタンクや携行缶がやっと届きました。
県知事は個人でのボランティアや支援活動は行わないで下さい、先ずは登録して県の指示に従ってくださいと言ってます。
それだけ現地の道路状況が悪く一般の車が多く入り込み渋滞して緊急車両の移動が出来ず困っているとの事です。
しかし、自治体が手の回らない避難所に居ない人達への家族の支援は個人のボランティアとは別との判断なので、物資も揃い準備も出来た10日の朝に金沢を出発しました。
2日前の情報では、輪島に行くのに片道17時間掛かったとの事なので、上記の支援物資の他にガス欠対策に自車用の携行缶10ℓと自分用の携帯トイレ、食料、飲み物も事前調達して現地の燃料や水を使わなくても良い様に用意しました。
それと、車内泊用の寝袋やブランケットに着替えも持って…
ステッピ満載になってしまいました。
新聞に載ってた通行情報ですが…
むむ〜、コレで行けるんだろうか?
いつもは里山街道でビューンと行っちゃうから、七尾の道路とか細かい所はわからない。。。
通行止めだらけではホンダのインターナビもアテにならないだろし。。。
とにかく行ってみます。
進むにつれ目立ってくる倒壊した平垣や家屋、農家の納屋、道路や地面の地割れに陥没が…
漸く七尾に来ました。
特急サンダーバードが乗り捨てられた様に道路横の線路に置き去りにされていました。
暫く進むと案の定、前の車について行って道を間違えてしまい一度Uターンして、無事に知ってるところまで辿り着きました。
おお、ココは直進できるんだ!
しかし、車は渋滞して進みません。
里山街道は緊急車両専用になり、一般車両は下道に集中してて、さらに主要交差点には係員が立ち自衛隊関連車両やレスキュー特殊車両の通行の為にずっと片道を空け停車をさせるタイミングがあったりします。
やっと穴水のボラ待ちやぐらの横を通りますが、ドコモのスマホは全く電波無し…
KDDIは問題無く通話出来ます。
穴水から249で左回りの一方通行のルートを能登里山空港の方へ行くと、テレビニュースで良く見ている所に出ました。
画像は拾いです、こんな光景があちこちに広がっています。
やっと2連トンネルに来た頃には午後4時近くになっていました。
画像が少ないですが、被災の状況など写真に残すことは中々気持ちが進まず写せませんでした。
倒壊した真新しい住居の玄関に正月飾りが付いてるんです。
そこの家族の事とか自分に重ねてしまうと中々…
やっと珠洲道路バイパスの宇出津出口に来ました。
しかし、スロープを降りられない???
一旦分岐の車線で停車して様子を見ていると、珠洲方面から向かってくる対向車は反対車線のスロープを降りてゆきます!
↑見難いですが、穴水側のスロープはバイパスへの降車用も乗車用も破損が激しく通行できないんですが、珠洲側のスロープは両方共通行出来るんです。
オラは一旦高架橋の向こう側まで行ってバイパスの上でUターンして反対側のスロープを降りる事にしました。
高架橋もスロープと同様に当然ダメージを受けてるので、大きな段差を超えて渡りました。
そして、やっと宇出津に入り倒壊家屋で通行できない路地を避けて回り道して実家へ…
実家にはこの日に貼り付けられた緑の張り紙が!
玄関を開け『爺ちゃん、婆ちゃん!』と声を掛けると中から2人出て来ました。
顔を見てホッと一安心、やつれた感じは無く思いの外元気そうです。
家の中の大きな家具が倒れたりはしてなくて、トイレは目の前の陽水の水をバケツで汲んで流してると。
家の中の環境も良くて、コレなら避難場所の中学校の中より安心して足を伸ばして暖かく眠れるだろうと思いました。
環境が悪く2人が疲弊しているなら無理矢理にでも連れて帰ろうと思っていたけど、ホントに安心しました。
支援物資を簡単な説明をして全て渡したら、長居せずに直ぐ帰ります。
現地の貴重な水などを使う様な野暮はしたくないですから。
行きは8時間…帰りは7時間かかり朝8時に出て帰宅は夜の11時半でした。
渡した物資は近所の助け合っている親戚で分け合って活用してくれた様で、翌日に感謝の電話が2回も掛かって来ました。
次に行く時は今回よりももう少し気の利いた物を持っていきたいなぁ。
多分…道路も良くなってる筈だから愛妻様も連れて行けるかな?
今回、行く先々で見た遠く県外から遥々やって来てくれていた消防、警察、自衛隊、電力、その他インフラ工事車両、プレハブ住宅等積んだトラックに燃料を積んだタンクローリー…
空を飛ぶ大型の輸送ヘリ、朝早くから夜も徹して交通整理してくれている方々、他にも住居の安全確認をする方や裏方として必死に働かれてる多くの人達には本当に感謝です。
その陰で、火事場泥棒やバカな政治家がレンタカー借りて現地入りして被災者のための炊き出しを一緒に食べてバカアピールしてたりと、ホントに情け無くなる事も多く歯痒い思いもしました。
谷本前知事は三年前から続く能登半島の地震を受けて専門家から能登半島地震の被害想定を見直すべきだと再三言われていたのに対応せず、当時の想定は死者は9名としていました。
前回の選挙で馳知事に交代し、専門家がやっと被害想定の見直しを始めたのに間に合わず残念だとの記事が地元紙に載っていました。
もう少し対応が早ければ、もう少し地震が遅ければ助かる人も増えたかも?はタラレバですが、1000年や2000年に1度の地殻変動で地図が書き換わる程の恐ろしい力の前にはどうする事も出来なかったのかとも。。。
せめて元気に残った我々は、この先少しでも明るく楽しく経済回して復興の手助けをして、日本が違う意味で沈まない様に活発に動いてかないとダメですよね!
頑張ろう、日本ですね。